『負けるもんか』
中学生の頃、オトナの女はみんなこんな風だと思っていた。
『あの娘と間違えて 慌ててるの?
待ち焦がれてたよに 聞こえてくる
もう真夜中 しゃがれた声が
一度目のベルさえ鳴り終わってないのに
(略)
あぶないぜ あぶないぜ ah
負けるもんか 負けるもんか
無理でしょ きっと泊めるわ
扉を そっと開けるわ
ぐらついたパッション
つけこんでモーション
勝てるもんか
(略)
誰にもきっとばれずに
このままずっといければ
ぐらついたパッション
とびこんでアクション
かまうもんか』
(タイトル:負けるもんか 作詞者名:いまみちともたか)
最初に聞いたのは「でも!?しょうがない」だった。まさに衝撃。中学生には刺激の強いグループだったけれど、友達には言えない好きなグループとしてはまりまくった。こっそりレコードを借りに行って、テープに落とした。チェッカーズが中学生の「陽」であるならば、バービーボーイズは中学生の「陰」だった。
私は、一度も勝った事がない、というか、勝負をした事もない。
早熟な子供だったと思う。あの頃は「私には「今は」それをする権利がない」と思っていた。「自分を抱かない男などいるはずがない」と言う杏子さんが、まぶしかった。
みにくいアヒルの子が大人になって白鳥になるように、私も美しくなれるかもしれないと、あの頃は少しだけれど希望を抱けていた。
歌っていない杏子さんは、どちらかと言うと美人ではなかったけれど、歌っている杏子さんは誰よりも美しかった。歌うと不細工になるアイドルが多い中、異彩を放つ美しさ。それも私に希望を与えた。だから私もどこかで輝けば美しいはずと思えた。愚かな少女だった。
大学に入ったときに、「私にはそれをする権利がない」のだということに気がつく。「今は」が取れた。性別は女であっても、私は女ではないと、気がついてしまった。
“男を勃起させる才能がない”と、気がつく事は楽しい事ではない。
私は醜くはない。親から貰ったもので、直す必要がある場所はない。だけど、同時に私は「美人」ではない。何より「ソソる女」では絶対にない。ということも気がついてしまった。
人が美人と思う人とは顔立ちが整っている人ではなく、「私は美人です」という事を信じて疑った事がない人である。本当に整っていないと、なかなかそう確信する事は難しいが、松たか子や松嶋奈々子のように顔立ちが整っていなくてもなぜだか美人になってしまう人もいるのだ。育ちだろう。愛されて育ったんだな、と思う。
杏子さんは顔立ちは美人ではない。でも、歌っているときは「私は絶世の美女だ、私が落とせない男はいない」と確信して歌っていたから、歌は私を殴りつけたのだ。
そんな訳で、美人以外の役割で育てられた子供は、決して美人にはならない。
『私が男といちゃいちゃするような事は絶対になく、ありえない』と育てられた。
だから私は勝負をしない。勝負する事すら、私にとってはおこがましい。
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